団地のダイニングキッチン
先週の土曜日と日曜日の2夜に、『キッチン革命(きっちんかくめい)』というスペシャルドラマがテレビ朝日で放送されました。2021年には、戦後初のCAの奮闘記『エアガール』、2022年には、女子教育の先駆者の青春を綴った『津田梅子~お札になった留学生~』と激動の時代を力強く駆け抜けた女性たちの物語が放送されましたが、今回は「食の革命」で日本を変えた2人の女性の物語でした。
一人は、料理のレシピである「料理カード」や軽量スプーンを開発した女性です。もともとは医師だったのですが、病気を治すことも大事だけども、病気にならないようにするためにはどうしたらよいのか、貧しい家庭でも“栄養バランスのよい、おいしい食事”を作ることができたら病気になる人も少なくなるはずと、レシピという発想がなかった時代に、料理を科学(数字化)の視点から分析することに一生をささげた方です。そして、もう一人は、日本のダイニングキッチンを開発した建築家の女性です。二人とも実在する女性をモデルにしています。「料理カード」や軽量スプーンを開発した女性は香川綾さんで、建築家の女性は日本で女性初の1級建築士の浜口ミホさんです。
建築家の浜口ミホさんをモデルにしたドラマは第2夜で放送されたのですが、彼女が改革したのは“台所”です。日本では古くから、“台所”は暗くて寒い北側のほうに追いやられていました。また使い勝手の悪い粗末な設備で女性たちが一日中働く場所が“台所”でした。そんな台所を、家族が集まる家の中心へと移動させ、ステンレスの流し台を備えたダイニングキッチンを考え出したのが彼女でした。ダイニングキッチンは、戦後の日本住宅を一変させた“発明”だと言われているそうです。ドラマは、このダイニングキッチンを日本住宅公団が建設する団地に取り入れるために、彼女が今までの常識と慣例を打ち破って奮闘する姿が描かれていました。
日本住宅公団は私が生まれた1955年、しかも同じ月の7月25日に設立されました。この年は終戦から10年で、日本経済が急成長期に入り、都市部では大量の労働力を必要とされていて、仕事を求める若者が地方から都市部へ大量に流れ込んできました。あたりまえのことですが、都市部では慢性的な住宅不足が発生してしまいました。そのために、建設省(現・国土交通省)が日本住宅公団を立ち上げ、大規模な住宅(団地)開発に乗り出したのです。
本当かどうかは知りませんが、ドラマでは、国の計画は、1戸当りの住居の広さは13坪(約43㎡)、予算は75万円で年に2万戸の供給です。従来の都営公団の12坪よりも1坪広いとはいえ、浜口ミホさんの理想とするダイニングキッチンを取り入れるためにはやはり狭すぎたようです。もともと日本住宅公団には“ダイニングキッチン”の発想がなく、日本家屋で一般的であった食べる部屋と寝る部屋が一緒である食寝一体の部屋構成を考えていましたので、彼女の意見と日本住宅公団の考えが悉くぶつかっていました。13坪で理想のキッチンを作るために彼女が考え出したのは、1つは流し台の配列です。従来の配列であった、「流し場→調理台→ガス台」の順番を、「調理台→流し場→ガス台」にして流し場を真ん中に置くことにより、“動ける場所を広くする”のではなく、“動かないですむ”ようにしたのです。
もう1つは流し台自体です。じめじめして掃除が大変だった“ジントギ(人造石を成型して研ぎ出した素材)”の流し台を、汚れが落ちやすくて錆びないステンレスに変えたことです。しかし、当時の国内ではステンレスの流し台を生産している会社がなく、ステンレスを加工する大型プレス機が必要であったため、彼女は日本住宅公団の副総裁に直談判して、やっとの思いで業者が購入する資金援助を認めさせています。
このように浜口ミホさんが苦労して発案したダイニングキッチンが、日本住宅公団により建設された初期の団地に取り入れられたことを、このドラマを見て初めて知りました。
大阪でも、遅れて1962年頃から日本最初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンへの入居が始まり、1970年に大阪に初の万国博覧会を迎えました。そして、1955年から数えて70年、2025年に再び大阪で万国博覧会が開催されます。そのため、大阪ではホテルと分譲マンションの建設ラッシュです。私の事務所の半径500m範囲内でも、分譲マンションが7件建設中又は建設予定です。方や、浜口ミホさんが苦労してダイニングキッチンを取り入れた団地で、建替えもできず長寿命化もうまくできないままの団地も存在している現実があります。